長篠古戦場その①
長篠の合戦と言うと、私は織田信長の鉄砲隊が三段撃で武田の騎馬軍団を破った、近代戦の始まりと理解していた。
で、今回現地へ行ってみると、長篠の合戦は、これも有名な鳥居強右衛門が貼り付けになった長篠城の戦いを指して、織田・徳川連合軍と武田勝頼の戦いは設楽ヶ原の合戦と呼んでいるそうです。
上図で右の長篠と、実際合戦のあった設楽ヶ原とは4キロほど離れているそうです。それで今回は右の長篠城址付近の鳥居強右衛門主役の探索でした。設楽ヶ原は来月行きます。
2025年3月22日(土)
10時25分に飯田線の長篠城駅に着きました。今日は山歩会の企画で7名参加、現地のボランティアガイドさんの案内です。
飯田線って、乗客少ないと思っていたけど、結構乗ってますね。この先が少ないのかな。地図見てください。
今日はこの長篠城駅からスタートして、午後3時ごろに鳥居駅で終わる予定です。10時半ごろ駅を出発して、旧道を歩いて10分弱で長篠城址に到着しました。
火縄銃が撃てるみたいですね。撃ってないけど。
長篠城は武田と徳川の領地境にあり、双方に重要な拠点だったそうです。そして豊川や宇連川など三方を自然の要害に囲まれた、攻めるに困難な城だったようです。
弱冠21歳の奥平貞昌が500の兵で、1万五千の武田勢の攻撃に耐えたそうです。
兵糧攻めで落城近かった時、鳥居強右衛門が場外へ脱出、織田信長の軍勢が近いことを知り、命がけで城の城兵にそのことを伝えに戻って捕らえられ、援軍は来ないと言えという武田勝頼の命を裏切って、磔にされた話は有名です。
ガイドさんの詳しい説明が続きます。飯田線は、長篠城の土塁を貫いています。
11時20分頃、長篠城史跡保存館に入りました。220円です。
血染めの陣太鼓がここの宝だそうです。太鼓の革に血が付いていました。実物だそうです。近くの店で昼食休憩です。
12時20分に店を出ました。今度は長篠城址の横を通って設楽ヶ原方面に歩きます。街道を逸れて一寸入ると広場の中にお墓がありました。
武田勝頼の家臣、馬場美濃守の墓だそうです。合戦に敗れて退却する勝頼のしんがりを買って出て、死に場所に選んだとか。国道151号線に出て、少し引き返します。道の駅みたいな店を過ぎた信号で左折。もう一度地図をみましょう。
しばらく歩くと荏柄天神社がありました。今日はここの祭礼みたいです。12時50分です。
近くに立派な宝篋印塔がありました。そこから2分で医王寺です。この上の丘に武田勝頼が本陣を構えました。
健脚のガイドさんに誘われて(笑)、丘の上の本陣に登りました。登り口から10分弱でたどり着きました。他のメンバーは6分で登ったとか。長篠城が一望できる場所にありました。
お寺の中には入りませんでしたが、境内の弥陀が池の片葉の葦伝説の説明を聞きました。13時25分頃境内を出て、大通寺に向かいました。13時35分、道は大通寺山を越える地道に入りました。歴史の小道だそうです。
山越えと言っても大きな登りがある訳ではありません。20分ほどでお寺に降りてきました。そこに敗戦を覚悟しながら設楽ヶ原へ出陣する、武田四将が水盃を交わした井戸がありました。
設楽ヶ原へは出陣すべきでないと勝頼に進言したが聞き入れられず、討ち死にを覚悟で出陣したとか。桜、きれいでした。
お寺を出て、国道を渡って、朝通った長篠城駅からの道にでました。一旦駅に戻って、ワンカップとおつまみを受け取りました(笑)。14時頃です。ここから豊川対岸の鳥居強右衛門処刑地へ行くはずですが、どうやって行くのか解りませんでした。
駅を出て、一旦長篠城とは逆に進みました。するとお神輿が来ました。荏柄天神社の祭礼でしょうね。
その先を右折して踏切を渡っていくと宇連川を渡る橋がありました。下を覗くとなかなかの高さです。ここからは攻められませんね。
14時10分頃橋を渡り、今度は県道439号線に出ました。ここを10分一寸歩くと新東名の下に出ます。ここで右折して豊川を渡ります。牛渕橋と言いますが、ここが長篠城のビューポイントだそうです。
こんな感じです。建物が無いので判り難いですが、本丸跡の広場がみえています。
すぐに踏切を渡って右折して、豊川の岸に出ると鳥居強右衛門、磔の碑があります。
14時35分頃にここを出て、少し川沿いに歩きます。新東名の下を潜って右折すると、鳥居強右衛門の墓がありました。特に遺骨が納められているわけでも無いので、記念碑的なものですね。
ここからは5分で鳥居駅です。14時50分の到着でした。次の豊橋行は15時17分です。
ここで先ほど貰ったワンカップで反省会です。皆さん、お疲れさまでした。やはりガイドさんが付くと違いますね。自分ではとても、これだけ歩けません。来月の設楽ヶ原が楽しみですね。
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