伊勢型紙と大黒屋光太夫
鈴鹿市ウオーキングの2回目です。今回は鈴鹿市でも海岸沿いの白子駅から歩き始めました。
2021年1月28日(木)
明日から日本中が強風に晒されそうなので、一寸曇り空ですが10時前に白子駅に降り立ちました。実はこの白子駅、降りるのは初めてかもしれません。珍しいので一寸駅表に行って観光案内所にはいってみたりしました。10時7分に駅裏(海側)に戻り歩き始めました。まずは駅から5分の伊勢型紙資料館へ来ました。
資料館というので近代的な建物を想像していたので見落としそうになりました。江戸時代末期に建てられた寺尾家という伊勢型紙の製造から販売まで手掛けた屈指の型屋さんの家でした。
伊勢型紙は本来、着物の生地である反物を染めるための型紙です。貰ったパンフレットを一寸載せます。
精巧に彫り抜かれた型紙を反物に当てて糊をおいて染めるわけです。小さな型紙なので1反を染め上げるのに何十回も繰り返す必要があります。まあ現在は着物を着る機会も亡くなったので、この型紙の需要も減り、繊細な技術の伝承が存亡の危機なのです。今はむしろ型紙という用途より、美術品の用途で生き残っていくのでしょうか。
15分ほど見学して、今度は子安観音へ向かうことにしました。南に向かうとすぐに白子小学校があり、その校庭に白子代官所跡の案内がありました。紀州藩の代官所です。江戸時代白子は、伊勢街道の宿場であり、白子港も有って、重要な土地だったようです。
すぐに神社があったので入ってみました。今歩いている道の1本海側が伊勢街道なので、そちらが正門のようでした。久留真神社という式内社です。説明に車総社とありましたが、語呂合わせでしょうか。
そしてすぐ三叉路があり、海側から道が入りますが、その角に大きな石の道標があります。ここで伊勢街道が合流し、この先は伊勢街道になります。白子の伊勢街道は曲がり角が多く、旅人が迷うので建てられたそうです。
道標から10分一寸歩いて右折すると子安観音があります。その手前のお寺の土塀に石臼が、いくつも埋め込まれているので眺めていると、近所の奥さんが謂れを説明してくれました。またこのお寺には高浜虚子の句碑が有るとも。
子安観音は奈良時代の創建で真言宗のお寺です。伊勢街道にあり、三重四国八十八ヶ所にも入っているので何回か来ています。伊勢の浦に鼓の音がして網を打つと白衣の観音様が赤ん坊に背負われて現われた。その白衣観音がご本尊で、安産の神様として信仰されています。
境内の不断桜は天然記念物です。近くの海岸は今も鼓ヶ浦と呼ばれ、近鉄の駅も鼓ヶ浦です。寺を出て、その鼓ヶ浦海水浴場にやってきました。今は静かな砂浜です。11時17分。
海水浴場から12~3分歩くと白子港です。その一角に漁協直売所「魚魚鈴(ととりん)」があります。何か買おうと立ち寄ったのですが、めぼしいものは無くて買いませんでした。でも平日から、地元の人が買いに来ているので、お値打ちなのかも。
11時37分、新紅屋橋で堀切川を渡り、伊勢街道へ復帰しました。
今度は逆に神戸宿方向に伊勢街道を辿ります。すぐ右手に、白子東町児童公園があり、その中に「旧河芸郡役所跡」の案内があった。明治にできて30年間存続したとか。
この辺りの奥さんに伊勢街道のことを訊くと、私達は「塩浜街道」と呼んでいると言っていました。この先で神戸方面と塩浜方面に分れるからでしょう。でも塩浜街道は戦後できた名前だと思いますが。
12時06分、江島神社に着きました。海上守護の神様として有名で、白子の廻船業者が奉納した絵馬が1600年頃から残っている。
お昼時なので一寸お参りして、近くの江島公園へ弁当を食べに出かけました。すぐ海岸沿いです。
20分ほどで弁当を食べて、12時35分に出発し、伊勢街道に復帰しました。江島神社の前に乾物屋さんがあり、一寸覗いて店のご主人と話したりしました。5分も歩くと伊勢街道は近鉄の踏切を渡って神戸宿へ向かいます。その角に六体地蔵さんがあります。
地蔵さんの台座に六体の菩薩が刻まれているので六体地蔵と呼ぶようです。12時54分に向かい側の役行者の祠を見て、伊勢街道と別れて岸岡山展望台へ向かいました。
線路を渡り、岸岡台という団地の中を通って20分一寸で公園に着きました。デイキャンプもできる広場がある、標高50mほどの高台です。展望台があります。
伊勢湾が見渡せる絶好の展望台です。市街地のすぐそばに、こんな絶景の展望台があるなんて素晴らしいですね。セントレアから伊良湖岬、神島から二見まで見えるのです。
13時23分頃展望台を後にしました。千代崎駅方面に下りたいのですが、案内は無くて適当に下りました。一寸遠回りだったかもしれませんが大過なく、15分ほどで千代崎駅を通過しました。
金沢川に出て、県道6号線の千代崎橋で渡りました。渡ってすぐ右折して、大黒屋光太夫の慰霊碑を見に行きました。海岸の公園の防潮堤に光太夫漂流記の壁画が描かれていました。
近くの墓地に光太夫以下、漂流した17人の慰霊碑がありました。
外国屋光太夫は白子の廻船問屋の船頭で、1782年、江戸へ荷物を運ぶ途中で遭難し、アリュウシャン列島に流れ着いた。その後、サンクトペテルブルクに行き、ロシア皇帝エカテリーナⅡ世に拝謁し、帰国を許された。その後、日本との貿易を望むロシアの使節に伴われて帰国した。1792年。
慰霊碑から8分ほどの所に、一緒に帰国した小吉の菩提寺があった。
菩提寺から更に5分、大黒屋光太夫記念館がある。
ここに詳しく10年間の苦労が載っているが、帰国した光太夫は江戸城で将軍に拝謁し、そのご幕府お抱えとして江戸に住んだ。近くに開国曙光碑がある。
ここで14時28分だった。ここから20分で伊勢若松駅です。そこにも光太夫の銅像があった。光太夫はここ若松村の生まれだったそうです。
今日もなかなか面白い1日でした。
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