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2023年2月 2日 (木)

国道東海道の変遷

江戸時代以前、東海道を通る旅人は、木曽川、長良川、揖斐川の木曾三川をどこで超えるかが大問題でした。江戸時代に入ると、熱田の宮から船で海へ出て、直接桑名へ渡る七里の渡しが開設されました。およそ4時間で渡ったそうです。

ただ海路は天候に左右され、欠航もしばしば、また船酔いやトイレなど、問題も多く抱えていました。1626年、将軍家光が、上洛からの帰途、この渡しで船酔いしたとの記録もあるそうです。

そこで1634年、熱田から美濃路で北上し、尾頭で美濃路と分かれて、岩塚・万場・神守そして佐屋へ至る佐屋街道が開設されました。

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佐屋からは佐屋川を水路で下り、木曽川から長島の鰻江川の水路を通って桑名へ至る三里の渡しが開設されました。この街道は1666年には幕府道中奉行の管轄となり、五街道並みの扱いとなりました。

この佐屋路は幕末まで結構使われたようです。でも徐々に佐屋川の水量が減少し、船の運航が難しくなっていました。明治元年、明治天皇が1回目の東下りの際、この佐屋路を使われましたが、船が半分ほどの焼田港までしか上れず、そこから陸路を使われました。

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翌年の2回目の行幸では、更に悪化して、佐屋川入口の前ヶ須までしか船は入れませんでした。当時は江戸初期と異なり、現在の名古屋市港区周辺は、遠浅の海が干拓され新田になっていました。したがって、前ヶ須までは佐屋まで遠回りする必要もなく、熱田から直線的に来ることも可能でした。

そこで明治5年に新しく前ヶ須街道が完成し、明治9年に正式に佐屋路に換わって国道東海道となりました。図再掲。

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但し、前ヶ須から桑名へは、まだ陸路は無く、木曽川を「ふたつやの渡」で渡り、揖斐・長良川も渡しがありました。

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この国道東海道は、昭和8年に尾張大橋が完成し、翌9年に伊勢大橋が完成して、現在の国道1号線が東海道となるまで60年余り1級国道として国の幹線道路でした。ふたつやの渡を渡った長島側に明治25年建立の、東海道の石碑があります。

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現在この国道東海道は「東海通」という名前だけで残っています。熱田から庄内川の明徳橋までは旧道は消滅しているようですが、その先は前ヶ須まで、現在の東海通の南側に残っているようです。

近いうちに歩こうと思っています。

 

 

 

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