甲州街道一寸だけ
甲州街道は下図を見てください。京都から江戸へ中山道を歩いてくると、中津川から木曽路を抜けて諏訪湖のほとり下諏訪宿に来ます。ここで中山道は和田峠を越えて軽井沢へ向かいますが、甲州街道がここで分岐します。甲府から笹子峠を越えて府中、そして日本橋です。距離的には中山道が220キロ、甲州街道は200キロです。でも皇女和宮は中山道を選んだので、甲州街道は一寸険しいか開けていなかったのでしょう。
2019年7月15日(月)
日光白根山からの帰り、このまま帰るのも勿体ないので、近々歩く積りの甲州街道の一部を歩くことにしました。新宿から京王線に乗り、芦花公園駅で降りて、そこから日本橋まで20キロ弱を歩くことにしました。私は甲州街道を下諏訪から歩こうと思っているので、その時は、芦花公園駅まででゴールとします。
朝7時15分頃、芦花公園駅を出発しました。一寸北へ歩くと旧甲州街道と合流します。
角にセブンイレブンがあります。
5分で街道は国道20号線となります。現代の甲州街道ですね。今日はこの国道で東京駅まで歩きます。
朝飯を食べていなかったので、八幡駅まえの松屋に入って朝食をとりました。
7時55分に店を出て、街道に復帰しました。10分ほどで上北沢ですが、ここへ中央高速が合流してきます。
3分歩くと一里塚跡の案内があります。高速道路下に日本橋から4里16キロの一里塚が有ったそうです。
国道の北側に並行して緑地帯がありますが、玉川上水跡だそうです。
下高井戸駅前を過ぎると築地本願寺の墓地があります。樋口一葉の墓がこの辺なので、この墓地の中でしょうか。
この辺りは高井戸宿です。当初は日本橋から最初の宿場でしたが、遠すぎるので、間に内藤新宿が出来たようです。すぐ明治大学があります。
築地本願寺墓所から明治大学にかけては江戸幕府の火薬庫があったそうです。明治維新の新政府は、この火薬を利用して、彰義隊討伐や東北諸藩の戦争に勝ったそうです。
笹塚駅前を9時23分頃通りました。24時間営業の食堂や江戸情緒豊かな提灯やさんなどが有りました。
10時一寸前に新国立劇場があり、新宿の高層ビル群も見えてきました。ここで一寸、雨宿りしながら休憩しました。
10時10陣頃出発しました。初台駅を過ぎると都庁のビルも見えてきました。
ステーキ290円の飲み屋もありますねえ(笑)。
10時35分に新宿駅前を通過しました。
新宿駅を通り越して、新宿追分へ左折するのですが、どこを曲がるか探しました。このKEIOビルのある交差点のようです。
左折してすぐ追分交番とあるので、ここを右折します。ここが過っての青梅街道と甲州街道の追分だったのでしょう。
曲がるとすぐ沖縄料理屋があり、心惹かれますが、まだ時間も早いですね。きょうでい「いちゃりばきょうでい」ですか。
この辺り、内藤新宿と言うんだけど、何かその案内は無いかと探していると、道端に小さな案内がありました。新宿歴史博物館へ行くと、いろいろ展示が有ったらしいですね。
高遠藩内藤家の下屋敷の敷地の一部を使って新しい宿場を作ったので内藤新宿と呼ばれました。新宿御苑も下屋敷の跡なので、広かったのですね。その高遠藩、飯田藩、高島藩(諏訪)の3藩しか参勤交代には使われなかったとか。
ちなみに5街道での参勤交代は、東海道154、中山道34、奥州街道17、日光街道6だったそうです。
その内藤家の菩提寺が太宗寺だそうです。盆踊りの支度をしていました。
11時一寸前に太宗寺を出て、旧街道の新宿通りに復帰しました。その街道が再度国道20号線と合流する所に、四谷大木戸の碑があります。
四谷4丁目の交差点を渡ると、今までの新宿の賑わいがなくなってきます。
後半へ続きます。
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